耳鳴りがする。まるで踏切の音が頭の中で反響しているみたいだ。
響く頭を押さえ耳鳴りが止まるの待った。
しばらくすると耳鳴りがなくなり目を開く。
自分が何をしていたのか分からなくなって一瞬考える。
そうだ仕事が終わっていつもの道をふらふらと疲れ切った足取りで帰宅していた途中だったのだ。
しかし、目の前の景色はいつもの道ではない。
「…ここ、どこ?」
薄暗い建物の中にいた。
壁には所々に薄くライトアップされたガラスが輝いている。
ガラスには小さく何かが動いていた。
近づいてみると光で輝いた鱗がガラスの中でなびいている。
どうやら水槽だ。
「水族館?」
帰宅途中で水族館に寄った覚えはなかったが今いる場所はどこをどう見ても水族館にしか見えない。
混乱はしたが、とりあえず出口を目指して水槽がある薄暗い通路を進むことにした。
歩いて進んでも同じ通路が長く広がっている。きっとかなり広い水族館なのだろう。
こんな夜に水族館が開いているのにも不思議だったが壁に貼りだされている「ナイトアクアリウム イベント開催」チラシを見て納得した。水族館でも動物園でも夜のイベントをしていることがあるのを聞いたことがある。
魚が泳ぐ水槽を横目に見ながら、違和感を感じた。
確かに綺麗だがさっきから歩き続けても誰一人会わない。イベントなのにこんなんにも人が少ないのか。仕事終わりで立ち寄ったのでそろそろ夜中近くなるにしても自分しかいないのは奇妙だった。
もしかすると、イベント時間が終了しているのではと不安になり足を速めた。
急ぐ自分とは反対にふわふわと泳ぐクラゲの水槽が現れた。
クラゲコーナーに来たみたいだ。
多数のクラゲがライトアップされて泳ぐ姿はなんとも幻想的だ。
クラゲからのびる長い触手は光る糸のようで眺めていた。
なんだかクスッと笑ってしまった。
子どもの頃に海水浴でクラゲに刺されたことがあった。子どもながらにクラゲが不思議で触りたくなったのだ。刺されたあと手がヒリヒリして祖母に泣きついたのを覚えている。クラゲに触れるのは痛いものだと体感した出来事だった。
苦い経験であったが今こうして見ても綺麗だと感じるとなんだか面白くなったのだ。
「おねぇちゃん、クラゲ好きなの?」
急に話かけられ、驚きで飛び跳ねてしまった。
振り向くと水色のワンピースをきた少女が立っていた。
不思議そうに私を見ていた。
大人が飛び跳ねる姿に驚いたのかもしれない。
恥ずかしさに咳払いしながら「うん。好きよ。」と答える。
「そっかー」とニコニコと少女は微笑み返した。
やはり、私以外にもお客がいたという安堵と幼い少女ひとりだけなのが心配になった。
「ひとりなの?家族は?」
「ーん、いるよ。」
水槽のクラゲに夢中になっている少女は生返事で答えた。
少女はクラゲを数えだした。
しばらくその場に佇んでいたが人が来る様子はない。このまま少女を置き去りにするのも忍びない気がした。出口に行けばここの係員もいるだろうし家族も見つかるかもしれない。
「よかったら、私と一緒に水族館を回る?」
少女は水槽から目を離して、後ろに振り返り私を見て喜んだ。
「わーい!」
一緒に行こう!と私に抱きついた。初対面だが、かなり人懐こい性格の子のようだ。
少女は私に抱きついたあと「痛かった?」と心配してきたので「大丈夫」と答える。こんな幼い少女の抱擁に体を心配されるほど自分の様子がひどいのかと落ち込んだが、残業終わりの自分はそう見えても仕方がないと心のなかで苦笑いした。
「ねぇ!見てみてすごーく小さいよ。」色とりどりの小魚が泳いでいる。
この少女は魚が好きなのか1つ1つの水槽を食い入るように眺めては楽しんでいた。
横にいる私もついつい釣られて水槽を眺める。
こんな風にゆっくりと時間を過ごしたことは久しぶりな気がした。
ここ最近は職場と自宅の往復だけで休みは仕事疲れで家から出ずに休むばかりだった。
同じ日々を繰り返している生活だ。
景色に色を感じることなんてなかったのだ。
「この魚たち、追いかけっこしてるよ!」
魚同士が競うように泳いでいた。少女はその様子をしばらく見ると満足したのか次の水槽に向かって走っていく。水族館の薄暗い廊下で白いワンピースをヒラヒラとなびかせる小さい姿は妖精のようでなんとも可愛らしい。
次々に進んでいくと次は大水槽の前に出てきた。大きなガラスに張りに大きい魚の影が多数見えた。
本当にこの水族館はかなり広いらしい。
大水槽の神秘的な光景に少女も見上げて驚いた。
かなり時間を使って水族館を歩いているが一向に人に会わない。遠くで人影はみるのだが近づくと移動してしまったのか人はいない。少女の家族が心配していないかが心懸かりではあった。
その時、大きな影が横切った。
7メートルほどあるマンタだった。大きく羽ばたかせて泳ぐ様は空を飛んでいるようだった。
「おねいちゃんとわたし2人で、あの子に乗れるかな?」少女が瞳を輝かせて聞いてくる。
「あんだけ大きいと乗れるかもね。」
「あーいいな。私も乗りたい。」
マンタの上についているサメたちを羨ましいがっているようだ。
少女の言葉に私は笑った。
さっきから何度笑ったんだろうか?偶然ではあったがこの少女と出会えて良かったと感じた。
「ありがとう。」
「何が?」少女は急にお礼を言われて首を傾げた。
「一緒に見れて楽しいから。」少女に微笑みかけた。
「よかった。ずっと笑っていなかったから。」
少女は嬉しそうに笑った。
少女の言葉に驚く。まるで自分を知っているような口ぶりだったからだ。
「私、あなたと会ったことあったかな?」
少女は小さい頭で頷いた。
「おねえちゃん、優しいから好き。私、知ってる。」
素直に喋る姿は、いたずらに嘘をついている様子はなさそうだった。
同じ町に住んでいたらすれ違うこともあったのかも知れない。しかし、幼い少女がそんな些細な人物を覚えようとするだろうか?
いくら考えても彼女と会った記憶は思い出せなかった。
「おねえちゃんはクラゲになりたかったんでしょ?」
さっきの話で悩んでいた私を置いていくように急に少女の声が投げかけられる。
なりたい?どうして少女にはそう見えたのかな?
彼女の唐突な問いかけに言葉を返せなかった。
「消えた、消えた」
「儚いね…」
いつの間にか現れた多数の黒い人影が呟く。その姿は背景のように遠くにいて形しかわからないのに声はヒソヒソと耳元に聞こえてくる。クラゲのような大きい模様のライトが辺りを小さく照らし始めた。
『クラゲは体の約90%が水分でほとんどのクラゲは死ぬと溶けて消えてしまいます。』
水族館の係員であろう人影の声だろうか。
いや、これは自分の記憶にあったものだろうか。
いつだったか、揺られて帰る電車の中でスマホの動画で見たのだ。
クラゲが消える瞬間。海の中に溶けて消える姿を。
何もない毎日。同じ出来事、同じ生活。
何をしても楽しく感じれない。疲れになる。
街にいる多くが歩く人並の中を漂う自分。
その笑い声も動いている姿も気にならない。灰色の風景。
いつからだろう?面倒とか、何も考えたくない、何もしたくない。
このまま終われたらいいのにって思っていた。
消えたように生きるなら。消えたらいい。
少女に声を掛けられる直前にクラゲを眺め呟きそうになったのは「いいな」だった。
なんでそんなこと…
「でも、おねえちゃんは本当は笑って泣けるんだね。」
少女は私の真正面に立てったままで静かに見つめた。
涙が出なくなったのはいつからだっただろうか?
頑張ったって結果なんて出ないことなんか多々ある。周りの普通についていけなくなることだって。
比べなくてもいいんだって思っても見えるものは見えてしまう。
その度に大丈夫と言い聞かせても大丈夫じゃなかった。
ついには涙も枯れてしまっていた。
頬を伝う感覚に指を滑らせた。指先がかすかに濡れた。
「…そうだね。私も知らなかったみたい。」
目の前の少女に笑いかけた。
少女は凪いでいるようにただ静かに見つめ返してくれていた。
さっきまで不安そうに見えた少女が安心したように見える。だけどそれは自分自身の気持ちを少女に投影しているからなのだろうか。
急に耳鳴りが激しく起こった。
ぐらっと地面が歪んだ感覚と頭痛が現れ、頭の中が割れるように鐘の音がうるさい。
水族館に来る前にもあった、あの踏切の音だ。目の前の景色も歪んで見えて目をつぶった。
目を閉じる直前にいた目の前の少女は微笑んでいるよう見え、なんだか透けているような気がした。
しかし、すぐにそんなことも分からなくなるほどに暗闇につつまれる感覚に陥ちた。
ゴオオオオォォォ━
自分の前を横切る光と風を感じ視界が開けると、勢いよく電車が通り過ぎた。
電車が通り終えると自分を後ろから引っ張ていた何かに手放されたように前に倒れた。
踏切の棒が上がり近くにいた人が「大丈夫ですか?」と慌てて近寄ってくる。
突然のことで言葉が出るはずもなく、ただただ頷いた。
私…水族館にいた…はず…
急にさっきまでの記憶が曖昧になっていた。
代わりに思い出したのは帰宅途中だったこと。
そして、鳴り出した線路に漂うように進んでしまったことを。
魔がさした。
とりあえず、「大丈夫です。ありがとうございます。」と駆け寄ってくれた人に返事をしてその場から身を起こした。ただ駆け寄ってくれた人は自分を止めてくれた人じゃなかったらしい。
誰がひっぱってくれたのか?そうでなければ、あのまま電車の前に進んでいただろう。
キラキラと地面が光った。
粉々になった透明の破片が足元に散らばっていた。
見覚えのあるのもだった。
鞄につけていたクラゲのキーホルダーだ。
子どもの時に水族館で買ってもらったものだった。クラゲに刺されて泣いた私にコレなら触れるからと祖母が買ってくれた。薄水色のガラスでキラキラ光るキーホルダーのクラゲは綺麗だった。お気に入りで肌身離さずいつも身に着けていた。
踏切の出来事で落としたのか地面に砕けてしまっていた。
ストラップも千切れてしまっている。
残念だが仕方がない。ここまで砕けたものは直せないだろう。
「良かったですね。そのキーホルダーが引っかかったようで。」
駆け寄ってくれた人が地面を見つめる私にホッとしたように話しかけた。
彼は私の踏切での出来事をみていたようで、自分が踏切内に進んでる中で降りる踏切棒にキーホルダーに引っかかていたと。
「そう…ですか。」
もう一度、下に目を向けた。
地面に溶けてしまったが夜の月の光を浴びてまだ薄水色に輝いている。
幻のような水族館で出会った少女に似ているような気がして、その欠片を大事に拾い上げ足を進める。
このままどこへでも自由に行けそうな気がした。